法政大学体育会航空部 前監督と共に

 前 武久 昌次 監督は昭和初期より
霧ケ峯にて滑空訓練を重ね、多くの
グライダーパイロットを育てました。
 彼が育てた訓練生の中には世界中
を飛び回るエアラインパイロットも多く、
霧ケ峰をこよなく愛されたお一人です。
 写真左は私の長女・次女で、貴重な
記念写真です。
平成12年6月
 諏訪市長 山田 勝文様をお乗せして。

後席 山田 勝文 諏訪市長様
前席 ホテル こわしみず オーナーの
    朝倉 英仁 です。
    (私はグライダーパイロットです)
    自家用上級滑空機のライセンスと
    教官のライセンス持っています。
機体 本多 誠之氏 所有機 MG−19
runwayは東西方向(約900m)
霧ケ峰滑空場の今日このごろ
 諏訪市グライダー協会により運営され協会員(会員数85名)
の練習、記録飛行の他、日本学生航空連盟をはじめ各団体、
大学航空部の合宿に利用されている。滑空場は1600mの高
原に位置し、ダイナミックな上昇気流に恵まれ、本格的な山岳
滑翔が体験できます。
 霧ケ峰を離陸して、八ヶ岳・南アルプス・北アルプスへフライト
も可能になりました。5月のシーズンには無着陸 50km・300
km・500kmの距離飛行も達成され、また ウエーブを利用した
獲得高度 3000m・5000mの高度記録も生れました。
 現在滑空界から大きな注目を集めています。
昭和 7年11月  東京学士館において霧ケ峯グライダー研究会創設。会長に東京帝国
            大学教授、後の中央気象台長、藤原咲平博士が就任。
昭和 8年 7月  日本初のグライダー格納庫建設。グライダー3機到着し、訓練開始。
            会員20名
昭和10年 8月  ドイツのグライダーの父、ウォルフ・ヒルトが霧ケ峰を上空から視察。
            ワッサ-クッペに(世界のグライダー発祥の地)匹敵する滑空場と絶賛する。
昭和11年 9月  第一回全日本グライダー大会が朝日新聞社の主催にて開催される。
昭和20年 8月  終戦により使用中のグライダー数十機と訓練機材を焼却。
昭和27年 7月  日本学生航空連盟を始め各団体の訓練始まる。
昭和30年 5月  霧ケ峯グライダー研究会が再発足し、使用機は霧ケ峯式はとK−14
            プライマリー(銀翼号)。
昭和44年 5月  諏訪市グライダー協会設立される。
昭和53年 2月  長野県航空協会が設立される。
平成 9年12月  霧ケ峰グライダーふれあい館竣工。
霧ケ峯グライダー71年の歩み
シェンプヒルト Duo Discus
2004年 諏訪市グライダー協会
運航開始
Duo Discus 前席 操縦席
(中央下、フライトコンピューター)
アレキサンダーシュライハ―
              ASK−21
法政大学体育会航空部合宿風景
現在のグライダーと操縦席、ほとんどの機体がドイツ製
萩原式 H−22B
(日本国製造の機体で初めて
海を渡りイギリスで飛んだ機体)
霧ケ峯式 鷹七型
(当時のスーパーシップ機)
霧ケ峯式 はと K−14
(ゴム索発行の機体)
昭和初期から中期に霧ケ峰で飛んでいた代表的な機体
      第5回 全日本学生グライダー競技選手権大会
1955年(昭和30年)8月、
搭乗者・優勝者 : 法政大学体育会航空部・稲辺 哲明 選手
機 体 : 霧ケ峯式 (K・G・K) 鷹七型 JA2009
   グライダーのページ   

グライダー発祥の地 霧ケ峯
1933年(昭和8年)7月30日、「霧ケ峰にグライダーが飛んだ!!」それ以来78年が
経過し、「空を飛びたい」この一言に魅せられた若者たちが霧ケ峰に会い集い、現在も
高原の大空を飛びつづけている。

  SHINSYU KIRIGAMINE KOUGEN HOTEL KOWASHIMIZU SHINSYU KIRIGAMINE

霧ケ峰高原 ホテル こわしみず




























                 

〒392−0003 長野県諏訪市霧ケ峰高原 1−8  ホテル こわしみず

Tel 0266−52−1983 


HOTEL KOWASHIMIZU